昭和五十七年八月十八日 朝の御理解


御理解第五十四節 「徳のないうちは心配する。神徳を受ければ心配はない。」


 心配はない不安はないという世界は、私は不平のない不足のない、不平不足を思わんですむ世界の事だと思います。みんなの願いの焦点というのが、ここは一つおかげを頂けば頂いたらよいと言うのぢゃなくて、そういう信心を願目として目当てとして信心を進めていけば願いの全てが成就してくるです。一言二言ぢゃないです。この事さえと、例えば商売繁昌という事だけでは、やはり不平も不安も心配もあります、ね。ですから、不平不足のないというか思わんですむ、言わんですむ信心を目指すという事は勿論、神徳を受けていく信心、ね。「神徳を受ければ心配はない」とおっしゃる。だから、私共もそうでしたけども、神徳を受けるろか、不平不足を言わんですむとか、思わんですむとか、そういう世界は、ね。とても私共では出来ないと思うておったんです。ところが合楽では、ね。それがあのう、可能なんです。出来るんです、ね。あれは高橋正雄先生の有名な言葉ぢゃないですけども、ね。「どんな場合であっても、必ず道あり」と言うておられますね。必ずおかげが頂けるとは言うてない、ね。道が開けると言うてない。必ず道があると。どういう事の場合でも必ず道がある。だからその道を探すという事が先決なんです。必ず道はある。どんな場合であってもおかげになる道がある、ね。だからその道を探すのが、まず先決。それをなら、合楽では、ね。こういう信心すれば御神徳が受けられるという道を蒙り、これは間違いなく伝えておるのですから、皆さんがそれを間違いなくその事に焦点を置いて精進されたら、ね。それこそ心配はないという世界に入る事が出来るんです。ただこの願い事一つが二つが成就したから、と言うて人間が幸福になるものぢゃありません。人間の幸福というのは、やはり不平を言わんですみ、思わんですみ、ね。いわゆる心配はない世界、ね。教祖様はこう教えておられるけども、そんな難しい事は出来ないと、私も、ま、高をくくると言うか思うておったんですけども、自分自身が段々おかげを頂いてそれこそ確かに必ず道ありです。だから心配せんですむ道ね。不平不足を言わんでも思わんでもすむ道をね。教えてもらう体得さして頂いてそれを皆さんに聞いてもろうて、皆さんもそれを実験するところから不平不足のない心配のない、そこにはもうおかげの世界があるだけなんです、ね。必ず道ありです。だからその必ず開けるというのぢゃない、ね。合楽の場合は必ず道があるから、この道を行ずれば必ず道が開けるというふうに、また申しますね。本当に一つ心配のない、不平不足を言わんですむ世界に住みたいですね。
 昨夜私は、一晩中一切神愛一切神愛論という事をもう様々、もう様々な角度から願いとりました。もう本当にささいな事の中にも一切神愛である。どんななら大きな事であっても、やはり神愛論である、ね。それを、ま、いろいろ分からせて頂くという事は、最近私が申しております。今までは、ね。天地がバックであるほど心強い事はない。例えば、銀行なら銀行が、バンとあんたの為ならいくらでも貸しますよと言うて。○○銀行がバックにあってくれると言うなら、商売もしよい、ね。けれども最近の合楽では、も、天地がバックぢゃなくて、も、天地と交流する世界を言ってるんですね。天地と一体になれる、いわゆる天地人一如の世界を説くわけです。とてもそげな難しい事と言う事ぢゃないです。神の心を心とする。天地の心を心とする。とてもそんな事は出けんと思うておったんです。ところがね、神の心を心とする事が出来る。天地の心を心とする手だてが御理念によって説かれるようになってから、ね。誰でもその気になけば、そういうおかげの受けられる、ね。天地がバックぢゃない、天地と交流し合うておる世界、ね。そこから私は心配のない不安のない、私こうして夏期の大祭が終わりました。もう、いよいよ記念祭が、丸2カ月後には奉仕されるわけです。それには、も、大変ないろいろな御用があります。それをひとっつもこう、皆がその事に取り組んでないような気がしましたから、やっぱ、不安というわけでもなかったけれども、ね。今朝、今日の御祈念中に、ひょっとその事を思うたら、あのとうきびがね、実をいっぱい詰まっておるとうきびを頂いた。とうきびというのは、大体あおの普通に育ちさえすれば、あの実がいっぱい入るように出来とるでしょうが、ね。ここは入ってるばってん、ここは入ってらんというような事はないでしょうが、とうきびのまともに育ったとうきびは中は、も、いっぱい詰まっとる。私が、今朝から頂いたのはそのいっぱい詰まっておるとうきびの所どころを、ね。はあこれは鼠がかじったつばいな、ち、いうごたるふうで、こうかげておるところを頂いたんです、ね。例えば、お前が心配しなくてもちゃあんと信心が、言うならまともに育ってさえ行きよれば、それこそとうきびがいっぱいびっしり詰まるんだと、そういうおかげ頂ける。もしかげるとするならば、それはお前の心の中の鼠がかっじたのだというわけなんです、ね。も、必ずおかげが頂けるごつなっとるとぞ、ね。そりけんち言うちから、こう張り込んで油断をしちゃならんといったようなものでもないです。言うならば御理念がいよいよ血に肉になる行き方をいよいよ身につけていく、ね。そういう中からね、私は、も、本当に不平を不足を言うちゃ、ま、馬鹿らしいですよね。不平不足を言やあ、もうおかげが欠げます。もう切角、こう整いかかっておるお徳が頂けれるそのお徳が消えます。だから、も、こんなに馬鹿らしい事はない。これは皆さんもわかっとる。だから言うちゃならん、思うちゃならん。ところが言うちゃならん思ちゃならんでけでは、どうにもやっぱり言うたり思いたり致します。阿倍野の先生ぢゃないですけども、どんな難儀な人が参って来ても、私なら神様に心から御礼を申し上げるのがの、と言われたというお話しが先月、金光青年か何かに出てました。どうでしょう。普通の者であったら心配でたまらん。もう情けなくてたまらん。悲しゅうてこたえんと言ったような、なら問題、お取り次ぎ頂いても阿倍野の先生は、私なら神様に御礼を申し上げる。一切神愛と言ったような理屈の上ではないでしょうけれども、もう何十年間、私はこの生き方で行く。一切をどんな場合であっても喜びで受ける。初めの間は、それこそ血の涙の出るような事もあったろう。けれども不平を言わん不足は喜びで受けるという生き方をしていかれるうちに、その実験実証がです、確かにその世には神様に御礼を申し上げる事でけしかないと悟られておっしゃるからあれだけの人が助かったのです。合楽の場合は、ね。なぜ不平を言うちゃならんか不足を言うてはならんか、心配があると言うなら、まだ信心が足りない。その道理というか理由を合楽では説くわけですよね。だから合楽で言わ、こう言われるがお徳を受けるなんかだって、もう普通者な出けんと思うておったけれども、合楽では誰でもが御神徳が受けられる教えばかりを頂いてるんです。合楽の全ては、一切が言わば神愛論です。だからその神愛が悟れた時に、神愛に答え奉る行き方は、自ずと出来てこなけりゃなりません。一切、阿倍野の先生ぢゃないけれども私なら、ね。もう不平不足だらだらでお届けに来た人に対してでもです。私なら神様に厚う御礼を言うけれどもね、とこう言われたと、言われるそうです、ね。御自分の体験からそれが生まれて来た。成程一切神様の御神愛以外ないんだと分かるときに、御礼を申し上げなければおられない心が、そこには不平もならにゃ不足もない。腹立ちもなからにゃ悲しみもないという事になるんぢゃないでしょうかね。だからそういう世界を目指すという事。そしてそれに本気で、いわゆるここには信心の稽古に来るところとおっしゃるから拝む稽古でもお参りする稽古でもなか。お話しを頂いて今日は、どういう教えに取り組もうか、いうような構えをもってね。稽古さして頂かなければいけません。
 おかげがそれこそ、薫るようなおかげにならなかったり言うなら、とうきびがびっしり入っとる筈のうが、ところどころ欠げとると言うなら、それは鼠がかじっとると。その鼠は、自分の心の中に信心の状態の中にあるんだという事。もういっぱい、まともに育ちさえすりゃ、もういっぱい入るごつなっとると、ね。皆さんなら、とうきびが実がいっぱい詰まっとるような、ね。充実した信心生活をさして頂きたうですね。
                     どうぞ。